架空空間に引きずり込むブログ

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劇場版「鬼滅の刃」をゴレンジャーで読み解く!

どうも。劇場版「鬼滅の刃」無限列車編、映画歴代興業収入1位獲得おめでとうございます。究極に近いレベルの俄ファンとしても嬉しい限りです。え?管理人、お前は特撮マニアだろうって?アニメも評価するのかって?いやぁ、アニメだろうと小説だろうとゲームだろうと、人の心を動かすものであれば、媒体は関係ないですよ。良いものは良いと言いたい。例えそれがミーハーだとか、ブームに踊らされているだけ、と揶揄されようとも。しかし、この鬼滅の刃の映画の盛り上がりは、特撮マニアにとっては何ら不思議なものではありません。それは何故なのか、これから明らかにして参ります。さぁ、したり顔で鬼滅の刃ブームを分析して来た識者達よ、コロナ禍の閉塞した世相が吾峠先生にコレを書かせたなどと分析されたネットの記事を見て「こじつけ」だ、などと自らはそんな深く分析も出来ず文章も書けずに吠えていたネットの蛆虫達よ、真の牽強付会の力を見せてやる!

 

 確かに、奥深く、その場凌ぎや今後の展開次第でシナリオを変化させようとする姑息な曖昧さを見せずに連載されていた、週刊少年ジャンプの漫画「鬼滅の刃」。これを漫画展開の時点から支持していた、それ自体を誇っても良いとさえ思うファンは既に居たのだろうが、アニメ化に端を発したブームというものは、いわゆるアニメファンや漫画ファンをすぐに飲み込んだ。これは周知の事実である。そして、満を持して(コロナ禍の影響で延期もされたけれど)公開された劇場版は、あらゆる世代をも巻き込んだ一大ムーブメントとなった。その経済効果も大きく・・・とまぁ、これもまた周知の事実である。しかし、アニメを日本の文化だ、とまで国民に言わしめたジブリ作品をも凌ぐ事態になったにしては、「鬼滅の刃」はパッと目には普遍性に欠ける気もする。見ようによっては確かに少年ジャンプ漫画であるし、凄惨な血飛沫が飛ぶ場面もあって人を選びそうでもある。何より元はと言えば深夜アニメ枠だし、そもそもダークファンタジーだ。国民全てに支持される作品になるためには悪条件が揃っているようにも受け取れる。ならば、何故この劇場版をもってして、鬼滅の刃は日本国民に幅広く受け入れられたのか。今年の仮面ライダーは剣を振るうヒーローだが(それの是非は一旦無視して)、それを微塵も感じさせず登下校中の子供達が「全集中、水の呼吸、壱の型、水面斬り!」などと叫んでいるのは何故なのか、それはズバリ、鬼滅の刃は劇場版で、ついにゴレンジャー理論が当てはまったからだ。

 実は私が所属している時戸企画という物書き集団が、30年以上前から提唱しているのが、この「ゴレンジャー理論」である。これは、何らかの事象がゴレンジャーのそれに当てはまった時に、日本人はこれを幅広く受け入れてしまう、という理論である。一例を挙げよう。かつて一時代を築いたSMAPというアイドルグループが居た。彼らはデビュー当時6人であったが、ジャニーズ事務所のアイドルグループにしては珍しく、そのデビューシングルは売り上げランキングで2位だったという。それに対しジャニー喜多川が「YOUたち、なんで2位なの?」と言ったとか言わなかったとか…という話を引き合いに出す迄も無く、正直、最初の内は伸び悩んでいた印象であった。紙パックのスポーツドリンクとコラボしてパッケージに彼らの姿が印刷されていた商品が当時あったけれど、別に皆で奪い合うなどという、そんな現象はついぞ目にしたことはなかったものである。しかし、そんな彼らに転機が訪れた。メンバーの森君が急にオートレーサーになる夢を叶えるとか言って、脱退してしまったのである。今やジャニーズのアイドルの脱退なんてのは、恒例行事みたいなレベルに堕してしまったけれど、当時は極めて異例のことであった。このメンバーの欠落という一大事にSMAPは大幅にパワーダウンを余儀無くされ…るかと思いきや、この後、彼らは国民的アイドルとして確固たる地位を手にするのである。この事実の裏にあるのが前述のゴレンジャー理論なのだ。6人から5人になったことで、リーダーだけど一番人気ではないが実力・人気共にメンバーの要たる「アカ」の中居、最もカッコ良く一番人気で孤独の似合う「アオ」の木村、どこかユーモラスで異質な才能を持つ「キ」の草剪、若さ溢れエネルギッシュな「ミド(リ)」の香取、流石に紅一点という訳には行かないが中性的かつミステリアスな雰囲気を醸し出す「モモ(ピンク)」の稲垣、この5色の個性が揃った瞬間、彼等の人気はゴレンジャーストームの如く爆発したのである。この様に、ゴレンジャー理論というのは日本国民には遍く受け入れられるものなのである。

 翻って、『鬼滅の刃』はどうだったのか考えてみよう。先ずは、劇場版の直前までの分析から。残念ながらその時点では、『鬼滅の刃』はゴレンジャー理論には当てはまっていない。惜しくも当てはまっていない、というよりも、あまりにも重要なピースが欠けているのだ。

 主人公である炭治郎は、言うまでもなく伸び代の固まりの様な人物であり、若さ溢れる・・・この時点では未熟な主人公である。そしてその羽織の市松模様のカラーからも判る通り、彼のポジションは「ミド」である。これに異論は無いだろう。ミドレンジャーのマスクデザインを見れば見るほど、イメージカラーが一致しているのに感嘆を禁じ得ない程である。

 次に、主人公の鬼殺隊の同期であり重要なサブキャラクターの善逸について。これはイメージカラーの黄色を見る迄も無く、彼のポジションは「キ」である。コメディリリーフ的な役割の多い彼にキレンジャーのポジションは天職と言っても過言ではないだろう。

 同じく、鬼殺隊の同期である伊之助は、その猪頭の被り物を外した時の髪色と瞳の色を見て判る通り「アオ」のポジションであることは論を待たない。美形であり、単独行動に走りがちな彼がアオレンジャーの要素を存分に持つことは間違いの無い事実である。俺が死んでも泣く者は誰も居ない、と嘯く孤独な身の上も重なる所である。

 さらに紅一点、「モモ」のポジションはとても判り易いだろう。炭治郎の妹である鬼の禰豆子である。イメージカラーのピンクもさることながら、モモレンジャーのイヤリング爆弾の「いいわね、いくわよ!」とばかりに、血鬼術「爆血」を炸裂させる様は確実にモモレンジャーのイメージである。あのスラリと伸びた脚で蹴る姿もモモレンジャーを彷彿とさせるのに十分と言えよう。

 …とまぁ、ここまで、非公式に「かまぼこ隊」と称される主人公チームを見て来た訳だが、もうお解りだろう。彼等がゴレンジャー理論へと至らない理由が。そう、彼らには、真っ赤に燃える正義の炎、命を燃やす魂のリーダーこと「アカ」のポジションを取るキャラクターが居ないのである。ここまで文字にしたものを目にしたからには、私が次に述べることも、もうお解りだろう。そう、彼らは劇場版で無限列車に乗り込むに当たって、ついに「アカ」に当たる人物に出会うのである。心を燃やし、アツく正義を語り、これ以上無いリーダーシップを発揮する煉獄杏寿郎こそ、誰が何と言おうとアカレンジャーのポジションである。かまぼこ隊の面々は、煉獄杏寿郎という稀代の剣士を得て、ついにゴレンジャー理論に則ったのである。これでは、この劇場版が一般化しない筈が無い。この映画の公開初日が、一部のファンの宝物であった「鬼滅の刃」が、国民の財産になった瞬間であったのだ。

 その証拠と言ってはなんだが(ここからは映画のネタバレや原作コミックのネタバレを含むのでご注意いただきたい)、映画のクライマックスで、その杏寿郎に襲い掛かり、その「アカ」の座を脅かすのが鬼である上弦の参、その名も「猗窩座(アカザ)」である。これは偶然ではない。劇場版「鬼滅の刃~無限列車編~」は徹頭徹尾、ゴレンジャー理論に沿っているのだ。そう言えば、その秘密戦隊ゴレンジャーならぬ鬼滅戦隊と化した炭治郎たちの前に立ち塞がるのが、無限列車と一体化した鬼というのも、この理論に相応しい。ゴレンジャーの前に立ち塞がる仮面怪人の中で、三本の指に入ると言われるのは誰あろう機関車仮面である。無論、これも偶然ではない。ジブリ作品を凌ぎ、日本アニメの国家的な価値を上げたこの作品の底力の源は、この理論にあったのである。

 余談だが、惜しまれつつも原作は既に最終回を終えている。最強最低の敵として君臨し続けた鬼の王、鬼舞辻無惨を鬼殺隊の総力を結集して滅ぼしたのだ。これについても実は、ゴレンジャー理論を発展させれば解釈することが出来る。あの伝説と化した劇場版で、ゴレンジャー理論を成立させてもなお、滅ぼすことの出来なかった本作の「鬼」という存在。日輪刀でその頸を斬るか、日の光で焼くかしないと滅せないとされる、この鬼であるが、残念ながら王たる無惨にはその頸を斬るという手段すら通用しない。そのため、最終局面では無惨を倒すために、鬼殺隊は悲壮な消耗戦に打って出る。傷つき、多くのものを失いながらも、野外で無惨を足止めし、日の出を待つという作戦に出たのである。他のジャンプ漫画よろしく、友情・努力・勝利とばかりに皆の力を結集し、ラスボスを倒して大団円、という流れでハッピーエンドを迎えられるほど、無惨はセオリー通りな存在ではなかったのである。ならば、ゴレンジャー理論では倒せなかった鬼を、何故に彼らは倒せたのか。それこそが発展系・・・サンバルカン理論である。

 最終局面、ついに鬼であった禰豆子は人間に回帰することに成功する。これが、主人公チームから「モモ」が抜けることを意味しているのは言うまでも無い。ならば、前述の「かまぼこ隊」はミド・キ・アオの不完全な集団に成り下がったのか? 否、断じて否である。善逸も自らの型を産み出すなど、文字通り覚醒した。伊之助もさらにその牙を研ぎ、皆と共に歩むことを覚えた。そして、何より、杏寿郎の言葉を胸に、心を燃やしてヒノカミ神楽を会得した炭治郎。そう、燃える炎を纏い、その日本刀を振るうその姿は、紛れも無く「かまぼこ隊」の二代目「アカ」である。長いスーパー戦隊の歴史の中で、「二代目」で「アカ」で「日本刀で必殺技を放つ」のは、太陽戦隊サンバルカンのバルイーグルしか居ない。即ち、最終局面に於いて、主人公達は、ついにサンバルカン理論の境地に辿り着いたのだ。そのシンボルこそ、太陽。本作の鬼の最大の弱点にして、その王、無惨を倒す唯一の存在である。この3人の存在が揃った時、ついに鬼舞辻無惨はこの世を去ったのである。

 思い出して欲しい。「太陽戦隊サンバルカン」のテーマソングの歌詞(二番)を。そこには既に謳われていたのだ。どれだけの命が失われても、どれだけの・・・悲しみの夜が続いても、君は負けずに、朝を待て・・・そう、どれだけ斬り刻んでも倒れることのない無惨を倒したのは、どれだけ犠牲を払っても、手足がもげようと、目を潰されようと、「負けずに朝を待った」鬼殺隊皆の想いである。この歌詞の一致は偶然ではない。ありがとう、鬼殺隊の皆(みんな)。ありがとう、劇場版「鬼滅の刃」に関わった全ての皆さん。お陰で、俺たちの魂も燃えているよ。

 

<長文にお付き合い下さり、ありがとうございました・一部のキャラクターの漢字表記がやむを得ず異なりますことをご容赦願います>