架空空間に引きずり込むブログ

ただ一人の大切な友のために書くブログです。離れていてもソウルは一つ!

シン・仮面ライダーを管理人が語ります

 ある意味で、『シン・仮面ライダー』は幸運だったと言える。仮面ライダー50周年記念プロジェクトの一環として、先行して公開された「仮面ライダーBLACKSUN」が特撮マニアにとってあまりにも原作のファンを虚仮にした内容だったからである。もとより、あの社会派な監督に下駄を預けた以上、或る程度のことは予測出来たし、無論、心から仮面ライダーBLACKを愛している訳ではないであろう監督が撮るからには、少々のことがあってもいちいちクレームをつけるほど思慮浅い輩ではないという矜持も私は既に持ち合わせている。だから、残虐っぽい?バトルシーン(陳腐だったけど)を見ても、オリジナルの怪人に遠く及ばない怪人デザインを見ても、第二次世界大戦やら731部隊やら人種差別の暗喩(直喩か?)を見ても、完全体に変身しても今一つ強くない創世王候補を見ても、まぁ、そりゃこの監督ならこうなるよね、と広い心で(我慢して)見ていたのですが、私を激怒させたのは、何と言ってもあの「オリジナルのOPの不完全再現」ですね。名曲であるオリジナル主題歌に合わせ、できるだけ完全再現したあのOPムービー、一部にはあれが撮りたかったんじゃないの?と言うネットの意見もあった程だけど、何が完全再現だ!ダイナミックスマッシュのシーン(バトルホッパーで壁ズバーン)が無いやないか!あ、いや、そこじゃない。アレを見て「うわー、完全再現だ!」などと、原作ファンが喜ぶとでも思ったか!むしろ「ほら!完全再現だよ!嬉しいでしょ?良いでしょ?」と虚仮にされたとしか思えないんだよ!もう怒りしかない。あそこまでストーリーを紡いでいった中、全然原作をリスペクトしていないのを露見させた果てに、あれで贖罪したかのように「どう?再現だよ!」と言われても!だったら何故、世紀王同士の最終決戦の際、折角少し高い位置で西島秀俊を待ち構えていた日本テレビの水卜アナの旦那に「待っていたぞ!南光太郎!」ぐらい言わせなかったんだよ!出ちゃってるんだよ!愛の無さが。オリジナル楽曲を使う責任の重さをもっと考えろよ!ラスト付近、総理大臣を怪人が殺すシーンがあるけれど、あの中途半端なオリジナルOPの使い方は何だよ!何だと思ってるんだよ!いやー、冷静さを失うほど私は憤っている次第で…。『シン・仮面ライダー』はそれの後だから、何をどうやったところで、良く見えるに決まっている。しかも、賛否両論は巻き起こるだろうけれど、少なくとも原作愛に関しては任せても良い監督である。大丈夫だ。庵野秀明の小指の先一本あれば「仮面ライダーBLACKSUN」の監督の原作愛は凌駕出来るよ。
 そしてまた、或る意味で「シン・仮面ライダー」は不運だったともいえる。オリジナルの「仮面ライダー」をその時代に合わせてリブートしようという動きは、過去にもあった。誤解を恐れずに言うならば、俗に新・仮面ライダーと呼ばれるスカイライダー(おっと私の世代の仮面ライダーではないか)もそうだし、さらに紛らわしいけど「真・仮面ライダー~序章~」もそう。そして、本来の意味では「仮面ライダーZO」と「仮面ライダーTHE FIRST」がそれに当たるだろう。中には明らかに失敗作…というか私の好みにはまるで合わなかったものもあるけれど、名作と言われるものもある。「仮面ライダーZO」は、あの時代の背景で、改めて初代の「仮面ライダー」を描き直した珠玉の名作だ。たった43分でヒーローの誕生から最終決戦まで描き切る、雨宮慶太監督の手腕が凄い。しかも、賛否両論あった監督のマニアックな部分が暴走したコマ撮りのクモ女戦も、あのぐらい監督に好き放題やらせてOK、いわゆる監督特権だと思わせてしまう全体の出来の良さだった。ラストのテーマソングのイントロが掛かって来るシーンは痺れたよ。あそこ、あまりにも麻生勝(土門廣)がハマり過ぎて、一瞬、俺の目には仮面ライダーZOに見えた、と言わしめた素晴らしいラストカットだった。雨宮監督の仮面ライダー愛が溢れていたと言えよう。間違いなく、監督が「俺の仮面ライダー」を確立した瞬間だった。これらと「シン・仮面ライダー」は、比較される宿命にある。庵野とて、それを意識していない筈は無い。あれを「越えなければ」と思っている作品もあっただろうし、きっと「これは俺の求めているものじゃない」と思ったものもあるだろう。それらを踏まえて、決定版ともいうべき、この令和の空に問う、原作愛溢れるものを作らざるを得なかった。一番は自分のためかも知れないが、敢えて言うなら全国のオリジナルの「仮面ライダー」ファンのために、庵野は頑張ってくれたのだと思う。総ての批判を受け止める覚悟で。大ヒットさせてやろうなんてのは二の次で、俺の仮面ライダーを作ろうとした筈だ。そして、それはかつて新時代の仮面ライダーと称する番組に「こんなの仮面ライダーじゃない」と叫んだ総ての人への福音。そのためにあらゆる批判が巻き起こるのは必然。今の人々は、真の仮面ライダーを知らないのだから・・・。
 ここからは、実際の映画のストーリーを総てではないが、追って行きつつ語りたい。それをネタバレというなら、ここで読むのを止めて欲しい。通例、私はこういう書き方はしないのであるが、今回は行かせて貰う。あまりにも、自らの不勉強を棚上げにして、ネットの評論家の意見に染まる連中が多いのに心を痛めたためなのか、それとも物言わぬ庵野の代わりに私が、という気持ちなのか。とにかく書くよ。BE HAPPY.
 冒頭、いきなりの『三栄土木』のトラック爆走で、すでに私は興奮を隠し切れない。もう、この瞬間、仮面ライダーBLACKSUNの原作OP不完全再現で嫌な気分が続いていた私の気分は晴れたと言えよう。はっきりさせておきたい。コレだよ。コレがマニアの心を鷲掴みにするということだよ。そして、バイクで逃げる男女。あ、今回そういうことなのね、と仮面ライダーファンなら瞬時に悟れるだろう。改造手術直後の本郷猛を脳改造寸前に助け出したのは、本作では緑川ルリ子。2台のトラックの間にクモの巣が張ってあったことを考慮しても、クモの改造人間(まぁ事前情報でクモオーグって知っていたけど)に追われているのは必然。彼らはショッカーのアジトから脱出したが、追っ手に迫られているのだ。どうなる、と悩む間も無く爆風で吹き飛ばれる2人。結構な高さから落下したのに無事そうなルリ子を見て、この女、只者ではないと思いつつも、戦闘員(下級構成員と称することはこの時点では判らなかった)に担ぎ落とされる、その姿すらもオリジナルリスペクトが溢れる。そして満を持して登場するクモオーグ。饒舌に自らの使命を話し続ける彼がルリ子に危害を加えようとした、その刹那。見上げれば、そこには・・・・・これは、夢か。こうあって欲しいと私達ファンが願う強い思いが見せた幻なのか。誤解を恐れずに言えば、そこには仮面ライダーが居た。あの日、あの時に見た仮面ライダーの姿。しかし、これが夢幻でないことを私はすぐに悟った。マスクがアップになった瞬間、そこに赤いマフラーは無かった。ならば、これは夢ではない。今、見ている現実だ。そして、彼はまだ仮面ライダーではないことも瞬時に理解出来た。庵野秀明が嘲笑っている。夢だと思ったかい?夢じゃないんだぜ、と。やられた。最早このシーンはマニアの踏み絵である。ここで「!」と息を吞まないようでは、この先が思い遣られるのだ。そしてクモオーグから知らされるバッタオーグという呼称。当然だが、まだ彼は仮面ライダーではない。しかし、崖の上にヒーローが立たなくなって久しいこの時代に、颯爽と佇むその姿は正しく真のヒーロー。そして、彼は無言で飛び降りる。次の瞬間、我々は悟る。ああ、これは庵野の宣誓なのだと。ショッカー下級構成員達の血飛沫がこれでもかとカメラに映る。クドいくらいに映る。惨殺である。かつて誰かが、仮面ライダーは無辜の人々のために、その拳を血に染めるのだと言った。この映像は、それだ。この瞬間、庵野は子供目線を捨てたのだ。それは、興行収入に直結するであろうファミリー層・一般層という大多数の観客との決別を意味する。だが、それ以上に我々の耳には庵野の声が響いた。「俺は『仮面ライダーZO』とは違うものを作る」という宣誓が。『仮面ライダーZO』は或る視点では、かつて子供だった我々が、子供の頃に仮面ライダーに助けて貰いたかった、という夢をもう一度見させてくれる作品だった。当然、そこには子供が登場し、子供目線でも描かれる。オリジナルの仮面ライダーでも少年ライダー隊なるものが登場し、当時の子供たちの感情移入の一助となったものである。しかし、庵野はおそらくそれを良しとしなかったのだろう。或いは認めているにしても、俺の求める仮面ライダーは、そちらの方ではないのだと思ったのだろう。この残虐描写で、多くの人は引いてしまった。だが、我々にはその覚悟は痛いほど伝わって来た。きっと、この後、人でないものに変わり果てた自らの身体に苦悩する本郷の姿が描かれるのだろう。この時点では、彼はヒーローではない。勿論、仮面ライダーでもない。この作品風に言えば、彼はバッタオーグなのだ。きっと、この後、彼がヒーローになる瞬間が描かれる。あの崖の上で、映像上、唯一オリジナルと違う点だった深紅のマフラーを首に巻く、その時が…。

 まぁ、実際にはその瞬間は割と早く訪れるのだが。次のシーンでは、ついに緑川博士が登場する。そのキャスティングが意味するところ等の、あの世界の外での話は識者に譲るとして、私は彼が長台詞で一気に語り切る、現在の本郷猛が何者であるかの説明が好きだ。「君は組織の開発した昆虫合成型オーグメンテーションプロジェクトの最高傑作だ。」この場面で、庵野は世間が良く言っている疑問に答えたのだ。「バッタの改造人間が、人類を救い、今も戦い続けているのは何故なのか」「並み居る改造人間達を倒し続けられたのは何故なのか」「クモ男やコウモリ男と何が違うの」などという疑問に、である。我々の中では暗黙の了解事項として解決済み(そりゃ組織を共に脱出するのに凡百の改造人間という訳には行かないだろう)の話なのだが、この議論に最初からピリオドを打ったのだ。庵野の『解っていない人々』への解説は他にもある。まぁ今回は原作とシステムが違うにせよ、あんなベルトの小さなタイフーンが回るだけでエネルギーが得られるのかという疑問を呈する人がいる。しかし、仮面ライダーコンバーターラングという胸板部分にある防御パーツでも風を受けエネルギーに変換しているのはパーツの名前から考えても想像に難くない。100年進んでいるというショッカーの科学力を甘く見てはいけないのだ。なお、変わり果てた自分の姿に狼狽する本郷の姿も描かれているが(個人的には水道の栓はボキッとやって欲しかったが)、その刹那、拉致されてから人体改造(アップグレードと称されるところが今風だ)され、さらにルリ子に助けられ組織を脱出するまでのフラッシュバックが流れるんだけども、この辺りはあまりにもスッと我々の頭にも入って来た。それは、もう私くらいなら一瞬、私の妄想かと思える程に。それと、原作ファンとしてはクモオーグの緑川の捕まえ方がグッジョブ。ダメだ。いちいち論うのではキリが無い。
 物語の総てを語るのは敢えて避けるとして、この緑川のアジト的な場所での一連の話は、マフラーを巻くルリ子のシーンだけは想定外だったが、きっとこれは後々何かあるのだろうと覚悟しつつ、次に語りたいシーンに目を向けると、クモオーグに連れ去られたルリ子を追い、ついに変身シーンを見せる本郷。無論、これは原作オマージュなのだが、オマージュしつつも令和の演出になっていると共に、爆音上げて走り去るサイクロンに昨今、バイクでカッコ良く走る仮面ライダーを見なくなって久しい私は、痺れた。これがスピード全開のサイクロンだ。そして、ここからカーチェイスなどという陳腐な展開にはならない。勿論、原作オマージュではあるのだが、忽然とクモオーグの乗る車の前に立ちはだかるのだ。無傷とは想定外だとの旨で饒舌に語りまくるクモオーグも個人的には好みだ。流石は緑川の最高傑作云々、若干赤い彗星っぽいがヘビーな近接戦闘能力も当たらければ何も問題ありません、的な話をペラペラと間断無く喋り続けるクモオーグ、倒される時まで立て板に水の如く語るその姿は、まさしく狂言回しの鏡。こんな敵、昔はよく居ましたよねぇ。

 レッツゴー!ライダーキックのアレンジを惜しげも無く流す戦闘シーンは否応なしに本作の主張を映し出す。皆は色々言っているけれど、私にはスッと入って来ましたね。このダムで仮面ライダーがクモの改造人間と闘っている、決して戦闘のプロっぽくない荒いアクションで。それがイイ。そしてクモオーグの人外のフォルムが可能とする関節技に極めた筈が空中で錐揉み回転を受け(半ば錐揉みシュート気味である!)、必殺のライダーキックが炸裂。このライダーキックならば物理的にも破壊力に説得力があるだろう。そして、見せつけるかの如く、決メポーズで暫く滞空するのも最高で、クモオーグの断末魔もビタッとハマっている。申し分の無い『仮面ライダー』の初戦と言えよう。

 その後、チラッと映るロボットに反応しなかったあなたは石ノ森ファン失格…というか、アレに気づかない人は居ないだろう。あの瞬間はKがロボット刑事なのか何なのかは不明だけれど、行くぞ追跡、張り込み捜査~♪ とロボット刑事の主題歌の歌詞が浮かんだのは私だけではないはず。ブローアップ(戦闘強化モード)とか有るのかとかジャケットが赤じゃないのかとか色々とときめいてしまった私が居た。

 その後、用意周到なルリ子が秘匿していたセーフハウスに2人は向かう。フルオートでついて来るサイクロンに時代の進化を感じつつ(原作でも自動で呼べるとされていたが)、扉を開けたら居たよシン・ワールドの政府の男とシン・ウルトラマン(いや、別人だけど)。この2人との関係も新時代を感じさせた。警察やインターポールとの共闘は原作にもあったけれど、それを今の時代に持って来るとこうなるんだな、という印象。イチイチ台詞がそれっぽい中、ついに今作のショッカーの正体が明かされる。確かに、世界征服やら人間の自由を奪うやらでは悪の組織としてのリアリティーアイデンティティーが足りない昨今、今回の人工知能絡みの話は納得しやすい。ターミネーターのAIとも違う結論だし、創始者がケイ(外世界観測用自律型人工知能:この説明臭さが最高!しかも前身がジェイってんだからもう石ノ森ワールド全開)の眼前で自殺した上での話だし、人工知能アイそのものは大真面目で、人類の幸福を目指しているし・・・あ、そうそう。AIだからアイで、アルファベット順だからアイ→ジェイ→ケイなの?なんて思いもある訳ですが、チラッと映ったケイの前身のジェイがキカイダーっぽかったからジローの頭文字の「J」を取ったのか、ケイの前身だからロボット刑事のKの名前のボツ案であったJ(ジョー)を取ったのか、ここらも石ノ森ファン心をくすぐるけれども、なによりジェイが機能を停止した、としか言っていないことが更なるときめきポイントでした(結局その話は拾われなかったけど)。

 ここから色々あって、単身でルリ子がコウモリオーグのアジトに乗り込む訳だが、この時に今作の本郷猛の逡巡や苦悩というものを見限るルリ子、水辺で揺らぐ心を押し止め、ついに苦悩を乗り越える覚悟を決める本郷、本作を見て心の動きが描けていないと論じる風潮が多いが、それはいわゆる行間を読む力が足りないのでは、というのが私の主張だ。原作漫画では苦悩が描かれていて云々、という論調も、ちゃんと原作萬画(←変換ミスだと思った読者はこの作品を語る資格無し)を見たのか、と言いたい。原作者の類稀な筆致で印象が強いだけで、割かれているコマ数は然程多く無く、今回の「シン・仮面ライダー」を通じて心の動きの描写が弱いというのは当たらない。大体、そもそも怪奇アクションドラマだぞ仮面ライダーは、と思うのは私だけだろうか。

 そしてここからも色々あるが割愛するとして、天井からぶら下がり、羽ばたくコウモリオーグがもう石ノ森テイスト抜群で良い。さらには細かいデータをペラペラと語り、貴様のジャンプ力ではこの高さは届かないと宣う、飛んで逃げるコウモリオーグをサイクロン号のマフラーを可動させ、一気にジェット噴射することでハリケーンジャンプ(これもタイプミスではない)してそこからの人機一体の大ジャンプでライダー回転キックを決める一連のシーンはインパクト大。原作でもサイクロン号は、設定ではこういうことが出来るというものがあり、挿入歌の歌詞でも「ジェットの轟音響かせて」「ハリケーンジャンプ」というワードが使われている。或る意味で、ファンが心の中で思い描いていたシーンが、令和の空に映し出された瞬間であった。この後、庵野お得意の線路が多数交錯する場所での一連のシーンが描かれ、まぁ識者に言わせれば登場人物の心情の交わる様を暗喩しているらしいが、個人的にはこれこそ監督特権、好きにしてOKと感じた部分。キックの衝撃で車両が揺れるのが、個人的には評価が高いポイントだが。

 このコウモリオーグ撃破直後、批判を浴びがちなサソリオーグをアンチショッカー同盟?が処理する場面が描かれるが、映画のパーツ的にはオーグメントを処理するための特殊弾を開発するためのシーンである。まぁ、「シン」ファミリーの長澤まさみのサプライズ出演というところなのだが、少しふざけ過ぎでは的な指摘も分からないではないが、それこそ監督特権だと思う部分である。ちょっと快傑ズバットのキャラっぽい仮面?覆面?も、こだわりが感じられて良い。フルフェイスだと演者が判らないので、この選択なのだろう。

 で、この後がハチオーグ戦である。先ずは、おそらく無駄と知りつつ交渉?に行き、クラシックからの菊池俊輔サウンドで催眠するかの様に我々を淫靡なイメージに導いてからの、高層階のベランダからルリ子を投げ下ろしての本郷のダイブ!この高所からの落下による風の抵抗を利用しての変身は、原作萬画でも度々本郷が見せた危機回避のカタルシスだ。そして、決戦の時、本郷はとある方法を利用して超高空からの落下から、再度変身。技名こそ叫ばないもののフルパワーチャージからのスクリューキックを見せ、ハチオーグの人間洗脳システムのサーバーをアジトのビルの真上から破壊。一般人を操れなくなったハチオーグは、腹心の部下と共に仮面ライダーに挑むのだった。このバトルの様子がとやかく言われがちな部分なのだが、敵の武器を手に取って戦うシーンは原作にも多くあったシチュエーション。超高速でのバトルも、色んなバリエーションを誇る仮面ライダーの戦闘シーンと思えば何も問題ない。ハチオーグ曰く、これで互角だとか、スズメバチはバッタの天敵、などと言うけれど・・・否、こっちは昆虫合成型オーグメントの最高傑作だぞ、と。そして最後は本郷に情けを掛けられるハチオーグ。その後、ルリ子との最後の会話を遮るように、その命を奪える弾丸を放つシン・ウルトラマン(違うぞ!)。サソリオーグのくだりは、ここでこれをやりたかったためか庵野、という感じだった。生体電算機と言われたルリ子も、自身曰くに「友達に一番近い存在」と評したハチオーグの死に涙するという人間的なシーンが描かれる・・・用意周到だと機械的に言い続けた彼女の姿。この瞬間までは本郷猛の苦悩から、それを乗り越えて覚悟を決めるまでのストーリーであったとも言えるのだが、ここからはルリ子の心の変遷も描かれて行くことになる。

 なお、前述のハチオーグとの最終決戦での超高速戦闘シーンを、庵野の過去作であるキューティーハニーのオマージュとする向きもあるが、私の考えていたことは違う。ここで、このコマ落ちするほど、画面を回転するかの如き高速移動戦を見せてしまっては、きっと原作でショッカーライダーを倒した「ライダー車輪」は、この後に出ないな、などということを考えていたのだ。正直、あのライダー車輪というのは、当時の映像技術では思い描いていたことが映像化出来ていなかったのだろうと思う。だから、ひょっとして今回は…と思っていた部分もあったのだが、ハチオーグ戦を見て、ああ、これではライダー車輪の映像化は無いな、などと思っていた私であった。

 閑話休題。この後、色々あって(この辺りは本作ならではのオリジナルの部分が強く、心情描写などが多く続く。この部分は本作の核であり、かつ何度も見返してこそ理解できる部分でもある)、ルリ子の兄であるイチロー(←この書き方もいちいち石ノ森であるところがポイント)がチョウオーグとして覚醒し(じゃあ今までサナギマンだったのと思ったのは私だけではない筈)、総ての人類をハビタット世界へ送り込む計画を敢行しようとする。それを阻止せんと動くルリ子と本郷。そして対峙。イチローは暴力には暴力だと、強化型バッタオーグを用意していた。「アンタが初期型のバッタオーグか。いや、仮面ライダー、だっけ?」とフラリと現れる彼こそ一文字隼人。この何だか悟り切ったような通る声でやって来る感じが、悩み抜いていた本郷との違いが際立っており、初登場時から少し気障で、良い意味で舞台役者のように見得を切るような部分のあった原作での一文字を思い出させる。そして「お見せしよう」の一言(勿論、こうでなくてはならない)で、本郷曰く「風も受けずに」、変身。顔に浮かぶ改造手術の傷跡も紛う方無き原作リスペクトだ。だが、そんな積み重ねた2号らしさ、みたいなものを総て振り払うかの如き力強いキメのポーズを取り、ライダーパワーまでの一連のポーズを決める(解らない人は2号ライダーの変身ポーズだと思って下さい)。これを見た瞬間、勿論彼は未だ強化型バッタオーグではあるのだけれど、2号、とにかく2号だ。2号だよ。奴は2号だよ!と私の心の中でリフレインが止まらなかった。言っておこう。世界初のヒーローの変身ポーズとも言われる、この一連のポーズについては、そりゃ我々の目は肥えている。生半可なポーズを取って貰っては困るのだ。何なら放映から50年の時を経て、その所作は美化されてしまっている位だ。その我々をして、これは2号である、という感想しか抱かせないというのは、そのポーズに一点の曇りも無いということ。我々には解る。どれだけのテイクを重ねたのか、ということ。そして、ミリ単位での調整が入ったという腕のラインも、演者達はその重要性を認識していなかった様なインタビュー記事もあったけれど、それは違う。我々に2号、と認識させたそのラインの幅は、パーフェクトだったと言っておこう。キメのライダーパワーポーズを一文字が取った時、全身の筋の緊張が上がったのは私だけではあるまい。その後、彼は逃げつつも変身を遂げる本郷が、サイクロンのエンジンをふかしスピード全開でプラーナをフルチャージするのを待って、対決する。本郷の精神力に驚嘆しつつも、本気で来い、その優しさが弱さと紙一重であり、その結果本郷が死んだらあのお嬢さんはどうなる?とショッカーの洗脳に支配され切っていない部分も見せる一文字。最終的に煮え切らない本郷のスキを突いて、彼の左足をすぐには回復しないほどにヘシ折る一文字。その様子が、勿論原作の仮面ライダー本郷猛…イコール、藤岡弘、の有名な大事故を彷彿とさせるのは論を待たないが、まさかその直後、本郷の危機をルリ子が救うのは予想外だったが、さらに予想外だったのは直後にルリ子がK.K.オーグに刺されたこと。このK.K.というのがカマキリとカメレオンの3種合成型オーグメント(つまりもう1種は人間という訳ね)なのだが、死神グループなるところが作った新オーグメントで、オマージュ的にはゲルショッカー怪人っぽく、それはそれで胸熱ポイントでもある。彼は完全に悪役然と描かれており、クモオーグの仇討ちを果たそうとしているらしいのだが、ルリ子に完全に止めを刺そうとした瞬間に、洗脳の解けた強化型バッタオーグに蹴り飛ばされて先頭に入る。そう、仮面ライダー2号の誕生の瞬間である。圧倒的な強さを見せ、K.K.オーグを文字通り一蹴する一文字。だが、自らを救ったルリ子が絶命し泡と消えたのを確認すると彼は去ってしまう。共闘はまだ先のようだ。

 本人曰く、用意周到なルリ子が本郷の仮面に遺言データ(いや、プラーナパターンもか?)を遺したことで、総てを乗り越えてチョウオーグの野望を阻止せんと立ち上がる本郷。そのデータの中で、人間らしいはにかんだ笑顔や、素直に感謝を述べるルリ子、そして直接は伝えないまでも本郷への想いを滲ませる彼女に、本郷ならずとも涙してしまう。もう、映画を見る前に「え~?緑川ルリ子、浜辺美波ィ?」などと言っていた自分が恥ずかしい。もうこの後悔をショッカーに多幸感で上書きして欲しいほどである。ところで、本郷はショッカーの開発した昆虫合成型オーグメンテーションプログラムの最高傑作だが、緑川ルリ子がショッカーの人工子宮プロジェクトの最高傑作だと思っているのは私だけだろうか。緑川弘の娘で、あのルックスならばやはり凄いぜショッカーの科学力。そりゃあんなので、直接脳に語り掛けられた日には、そりゃパリハライズされるってモンでしょう。そして赤いマフラーなんて巻かれた日には、そりゃヒーローになる以外の選択肢は無いと言い切れる。もうヒーローの歴史の位置づけとしては、アンヌ隊員の域に達していると言えよう。

 閑話休題。そして、再度チョウオーグの元へ急ぐ本郷。一人で行くのか、と見送る一文字。本当はこの後、一文字の独白もあったとのことだが、庵野は大胆にカット。だが、それでいい。行間は、我々が読むので問題無い。そしてついに出たよショッカーライダー(本作では大量発生型相変異バッタオーグ11体)。マシンガンを全員が装備し、撃ちまくって来るその姿は正しく原作漫画版のイメージである。この戦闘を「暗くて何やってるか分からん」という向きも多かったようだが、そうじゃない。原作の旧1号編は、こんな暗い画作りをしていることも多かった。No problemである。そして大ピンチを迎えた本郷を救ったのは勿論、一文字隼人。「本郷。今から俺は仮面ライダー第二号だ」「二人でダブルライダーか」ここに、シン・ダブルライダーが誕生したのだ。たかが残り6体、質より量で勝負の劣化型バッタオーグなど、パーフェクトな決めポーズを取って戦闘に突入した我らのダブルライダーの敵では無い。そして図らずも私の勝手な推測通り、ライダー車輪でなく、ダブルライダーキックで勝利を飾るダブルライダー。庵野がカットしたシーンで、緑川イチローがこの大量発生型相変異バッタオーグを差して質より量、と独白するシーンがあるのだが、カットして正解である。正面からぶつかっているのに、俺達の(←この表現がスッと出て来ること自体がパーフェクトである証である!)ダブルライダーキックが勝っているなら、そんなことは言わなくても伝わるというものだ。一文字が本郷の窮地を救った後の会話、「すまない、一文字君」「謝罪じゃない。そこは感謝だ」「ありがとう、一文字君」「君じゃない。ここは呼び捨てだ」「解った、一文字」この一連のやり取りの後で、「やるそ!本郷」「ああ、やろう!一文字」と来て、決めポーズをビシッ!と決めるその姿に私の体も一気に筋緊張が亢進しヒートアップした。誰だ、誰だ。暗くて何をやっているか判らないと言ったのは。これこそがダブルライダー。1+1が2ではないことを教えてくれる、悪を蹴散らす嵐の男達だ。C.アイが、否、正義が眩し過ぎるぜ。

 そして、話題のラストバトルへ。やれ泥仕合だ、最終決戦にしてはショボいとか何とか、喧々諤々だが、私としては違和感無く見られた。おそらく生命力や攻撃力総ての源であろうプラーナの絶対量が多いチョウオーグの戦いというのは、おそらく普通ではない。蝶のように舞い、なんて言葉があるが、まるで舞うかの如き華麗な立ち回りは、それそのものがチョウの表現なのだろう。しかし、チョウだという前触れで、我々は当然、原作のチョウ男を想定・・・するのではなく、当然イナズマンオマージュが来るのかと思っていた(サブロウではなかったけれど)。すると、本気で相手をしよう、との声と共に、イチローの顔が割れてチョウの口吻部(巻かれたチューブ状の器官)が額に現れた。やはり、イナズマン(原作萬画版)か。だが、そう一旦落ち着いた我々の目に飛び込んで来たのはアルティメットハーフタイフーン(当時は名前は不明だった)。我々の気持ちはこの一言である。ダ、ダブルタイフーン?否応無く、表現される強敵感。そして彼は「仮面ライダー第0号」であると嘯く。勿論、これは本郷の仮面ライダー宣言を知ってのことであろうが、彼自身も自分を「この世界を救うヒーロー」と揺ぎ無く位置付けている自信の表れでもあろう。そして激闘。確かにスピーディーでもなく、かといってファンタジックなものでもない。言うなれば圧倒的な強敵に挑む、二人の必死な姿が描かれたと言える。必死になるのも当然である。この戦いに、人間の自由が、未来が掛かっているのだ。文字通り、何が何でも勝たねばならない。そこまで考えていたら、本当にダブルライダーが「何が何でも」と言って再び立ち上がるのが描かれていたのを見て、自分の解釈が間違っていなかったと初見で確認したのを覚えている。いずれにしても、このラストバトルに私は何の違和感も感じなかった。ある一点を除いては。それはーーー勿論、本郷の死である。正直、これは想定外だった。ショッカーライダーの襲撃を退けた以上(原作はあそこで本郷は死ぬ)、もう彼が死ぬ選択肢は無いと思っていたので、これは驚いた。せっかく、群れるのは嫌いだと言っていた一文字が、好きになることにしたと共闘したのに、である。必然、一文字は「何だよ。また一人かよ」と独り言ちることに。だが、やってくれたな庵野、と私は思っていた。庵野は、結局、アレをやるつもりなのだと。いや、私の裏をかいて、機能を停止したとされたジェイのボディを…?

 そして、あのラストシーン。一人が好きだと言って来た一文字が、本郷の想いを受け継ぐことに決めた。彼は尋ねる。あの2人の男達の名を。その瞬間、やられた、と少しだけ思った。彼らが返事をする前に、その答えが判ってしまったのだ。「シン」となるのにあたり、最も「シン」足らしめているのは緑川ルリ子だと思っていた私に衝撃が走った。少し考えれば解ることだったのに。これは庵野の術中にハマった。彼らの名は…そう、立花と滝だ。本名かどうかは定かではないけれど。そして、来たよ2本線。メタリックライトグリーンの仮面。新しいサイクロン号。疾走する一文字・・・?。でも、この後のセリフは、私には、我々には解っていた。もう、自分の脳内から再生してるのか耳から聞こえているセリフなのか、判別が付かない。

「本郷。感じるか。この風を」

「ああ。(中略)一文字の感じる風の力も、排気音も、匂いも総て感じる…」

「スピードを上げてくれ一文字。新しいサイクロンを味わいたい」

「よし、行くぞ本郷。俺たちはもう一人じゃない。いつも2人だ」

目頭が熱くなった。そう、これは原作萬画のワンシーンだ。今までのストーリーは、ただ一点、このゴールのためにあったのだ。これは、完璧なまでに原作怪奇アクションドラマの、旧1号・旧2号からの新1号・新2号へのアップグレードを令和の空にアダプテーションした最高のエンディングだ。ここでショッカーの壊滅を描かずに映画は終わるが、それすらもかつての仮面ライダー映画をオマージュしているのだと私は言いたい。オーグメントごとにオムニバス形式で語られたこの映画の構成自体も、テレビシリーズの再編集で作られていた仮面ライダー映画へのオマージュだろうし、そんなことは言われなくても解るよ、という言い切れる人達のために、否、そんな人たちのためだめだけに作られているのだ。

 そんなことを考えていたら、爽やかな、抜けるような、青空のようなスッキリとしたBGMが突然、レッツゴー!!ライダーキックに変わった。そして流れて来た。藤浩一の声が。ここでついに私の涙腺は崩壊した。ロンリー仮面ライダー(けだし名曲だ)、かえってくるライダーと曲は続いた。たまたま私の好みにも合致したところでもあった。勿論、レッツゴー!!ライダーキックを本作の主役がカバーしていることは、これを態々初日に見に来るような輩は知っていたであろう。しかし、敢えての藤浩一バージョンである。これを庵野の懐古主義で片付ける向きも多いが…違うだろう。何も解っていない。追悼だよ。過日、鬼籍に入られた子門真人への追悼だよ。そういう意味もあって私は泣いてしまった。勿論、この映画の余韻を楽しむに当たってこれ以上のエンディングソングはない。これについては、この文章の最後にもう一度触れよう。

 総じて、これまで語って来たように(全部を拾った訳ではないが)、本作は原作愛、石ノ森愛に溢れた作品であり、どこかのリスペクトと冒涜の区別も付かずに作られている作品とは一線を画すものであった。勿論、私が監督特権だ、と表現した少し暴走した部分もあるのだが、それでもなお、一つ、私なりにこの作品に思うところがある。この作品にはキカイダーロボット刑事K、キカイダー01、イナズマン等々、仮面ライダーという作品以外へのリスペクトがある部分も出て来る。もう、それはそれで石ノ森愛が爆発している部分でもあるのだがーーーかつて、石ノ森愛を爆発させていた漫画家がいた。誰あろう、庵野の友人と言われる島本和彦である。彼は、石ノ森本人から託された「スカルマン」という漫画のリブート作品で、かなり強引に色々な石ノ森キャラクターを登場させ、その愛を我々に見せつけていた。これは私の想像だが、庵野は、これに対抗したのではないか。漫画家、という共通項があるとは言え、石ノ森から「スカルマン」を託された、という点も庵野の対抗心を擽ったに違いない。でも、俺は「仮面ライダー」を撮るんだぞ、と。ゴジラウルトラマンと違って、俺が監督・脚本だぞ、と。そしてお前に負けじと石ノ森キャラクターを出してやるぞ、と。そして勿論、この文章で私が書き連ねて来たように原作愛も大爆発させた。どうだ、島本。これが俺の仮面ライダーだ、と。そんなメッセージだと私は受け取った。

 ・・・とまぁ、ロンリー仮面ライダーが流れるスタッフロールの最中(さなか)、私なりにそんなことを考えていた。そして、もう一つ。この文章の冒頭、私は庵野興行収入に直結するであろうファミリー層・一般層と決別した、ということを書いた。これが嘘ではない、という確信を私は得ていた。何故なら庵野が、自らの描いた令和に帰ってきた仮面ライダーのスタッフロールに、宇多田ヒカルや米津玄師を持って来なかったからだ。宮崎駿ですら、最新作のスタッフロールに米津玄師を流したのに、である(正直、宮崎駿庵野の後追いをするのは意外であったが)。庵野はあらゆる批判が巻き起こり、延いては興行収入に響くのも承知で、私のような真(シン)の仮面ライダーマニアのためにこの映画を作ってくれたのだ。すまない、庵野。いや、ここは謝罪じゃない。感謝か。ありがとう、庵野。ここは、呼び捨てで良いよね。  <了>

 

※重ね重ね、何様のつもりだ的な敬称略であったことをお詫びします。